7/2(土)更新&修正
※アイコンは『湖上の月』から引用させてもらっています。
第一回目の講義 5/31 (火)
はじめに
今年で、太平洋戦争終戦して60周年になろうとしています。
今講義は太平洋戦争60周年を記念して、『沖縄戦とは?』を自分なりの解説をしていきたいと思います。
ミルフィーユ
『知得留先生! 沖縄戦って何ですか? 全然わかりませーん!』
沖縄戦とは?
じゃあじゃあ、ミルフィーさんもわかっていないようですから導入部ということで簡単に話をまとめておきたいと思います。
沖縄戦とは雄一日本の本土でおこなわれた日米両軍の激戦地だと言われ、日本軍は勇戦の末全滅をし沖縄は焦土と化しました。
また住民も多く巻き込まれたため実は日本守備軍よりも、住民の犠牲者が多いと言われています。
地元の若い高・中学生が【ひめゆり部隊、鉄血勤皇隊】戦闘に参加して玉砕(戦死)したり、指揮系統が麻痺し、秩序を失った日本軍があらぬスパイ容疑で住民を虐殺したり、日本軍大半の住民が激戦地となった摩文仁地方に逃げたとか、住民達がお亡くなりになった原因はいろいろあります。
だけど、装備がアメリカ並みに整っていれば実は旧日本軍が勝っていたという見解もあったりします。
まぁ、住民の虐殺の背景(自分なりの解説)も後々で。今から沖縄戦の概説を登場人物を交えながら話をしていこうかと思います。
ミルフィーユ
『大変なんですね、ってえぇ!? 住民も巻き込まれたんですかぁ!?」
参考
ここでは、軍部の視点を中心に見た『沖縄戦』を講義をしていきたいと思いますので、こんな映画はいかがでしょうか?
ちなみに、東宝映画で『激動の昭和史 沖縄決戦』【監督:岡本喜八 出演:小林桂樹 丹波哲郎 仲代達也】という戦争ドラマがあるので興味があれば
見てみるのもいいんじゃないでしょうか? キャスティングが渋く、若いです。
沖縄戦と旧日本軍第三十二軍
(1)増設の経緯
沖縄は当初、戦略上重要視されていないためか防備は薄く兵力が少ない状態でした。
【航空設営隊しか配置されず、防備も薄いです】
しかし、サイパン・グアム島陥落等戦況がだんだん不利に傾きかけると、大本営【日本陸海軍本部】は南西諸島の戦略上重視してきたため、防備を固めるために第三十二軍を新設することになります。
また人事についても一新し、司令官は渡辺雅夫中将に代わり牛島 満中将に。参謀長についても北川少将から、長 勇小将(当時)に代わりました。
そして、米軍を悩ますこととなる原因となった八原 博通大佐は高級参謀に就任します。
沖縄戦での主な登場人物
旧陸軍 沖縄第三十二軍
牛島 満 中将↑ 長 勇 中将 ↑ 八原 博通 大佐 ↑
【沖縄守備軍 司令官】 【第三十二軍 参謀長】 【第三十二軍 高級参謀(作戦主任)】
参考程度に、『激動の昭和史 沖縄決戦』では…。
これから、映画の画像を使ってエピソードも交えていきますので頭の片隅にでも。
牛島 満 中将 長 勇 中将 八原 博通 大佐
【小林 桂樹さん】 【丹波 哲郎さん】 【仲代 達也さん】
「八原君には 「俺たちもやろう! 「今こそ冷静な判断が必要です」
ぜひとも成功してもらわねば困る」 必殺の夜襲をかけようじゃないか!」
海軍 沖縄方面根拠地隊
太田 實 少将
牛島 満・・・万事を全て部下に任せ、責任は自分が負う、まるで西郷隆盛みたいな人物。(ちなみに牛島自身鹿児島の出身)
陸軍士官学校校長も歴任していて、部下の真意を見抜くことに長けていました。温厚で部下をしかることは少なかったそうです。
※一回、八原の態度を叱責したらしいです。
長 勇・・・ 豪放磊落で、絵に描いたような豪傑ハダの人物。
上司でも痛烈に批判し部下のミスも雷を落としますが、時には、上司の前で部下のミスををかばい通す等親分ハダでもあり、人望が厚いです。
数々の逸話で飾られ(例えば、部下に浪花節で訓示を与えたりとか)陸軍の中で『横紙破り』と呼ばれた人物であり、名物男。
八原 博通・・・生来の明瞭な頭脳から生み出される、冷静慎重で合理主義的な作戦思想をモットーとする旧日本軍の中では異端の存在な人物。
陸大教官も歴任。性格的には、上司の意見も平気で批判したりだとか、一度言った意見は絶対に変えない頑固さも併せ持ち
それがアダとなり、次第に孤立を深めていきます。
※しかし八原大佐は豪傑な長参謀長に惹かれ長参謀長も八原の作戦を心から認め、お互いの心の交流は深いものがあったそうです。
それなりの付き合いもあったそうです。
太田 實・・・沖縄方面根拠地隊【海軍】の司令官。
小禄地方で陣を張って陸軍と共同作戦に当たることになりますが、陸軍が首里撤退の時に重大なミスを犯してしまうことになります。
第二回目の講義 6/5(日)
今日のポイント!
今日は、第三十二軍とは? ということをテーマにしたいと思います。 この時の沖縄軍の構成を見るとかなり強いんですよ、そういうことをわかってくれればと思います。 |
(2)第三十二軍の内わけ
大本営は南西諸島に一大飛行要塞造りを考えていた中防備を固める決意をし、サイパン奪還作戦に使うはずでした満州から抽出した第九師団、
戦車第二十七連隊を急いで輸送をします。
独立混成第四十四旅団(輸送中に輸送船が沈没して数が半減したので、連隊を空輸して数を補った)
関東軍から引き抜かれた第二十四師団、しんがりの第六十二師団が到着します。
また、宮古・石垣島にも師団・旅団が送られます。
これで大本営の企図した南西諸島の兵力増派・展開はほぼ概ね終了しました。
ちなみに、八原大佐はこの後も長参謀長を通じて15センチ級以上の砲約百二十門からなる強力な砲兵を獲得してもらい、また統一運用のため
和田孝助中将を長とする第五歩兵指令部を配備もしました。←これで第三十二軍は増強、この砲兵隊は米軍をより一層苦しめることになります。
主な沖縄部隊のアラカルト
●第九師団・・・現役兵が大半の精鋭師団でした。
実際の主力師団であり、最も牛島司令官達が期待していました。だが、実際は台湾軍に抽出されてしまう運命に。
●第六十二師団・・・もともと、しんがりでした。
中国北部地方で警備任務についていたもので、砲兵部隊を持たないが陣地守備は得意でした。
第九師団の代わりの主力として首里地方前線で活躍することになります。
●第二十四師団・・・元々の属性は関東軍。
満州地方で訓練を積んでおり、野砲八門、10センチ榴弾砲【カノン砲よりも小型】十六門、15センチ榴弾砲12門等
砲兵が協力であり、優秀な師団である。
●独立混成第四十四旅団・・・前文にも書きましたが、輸送船が襲撃され壊滅状態になったのでほぼ戦力になることは少なかったです。
●海軍沖縄根拠地隊・・・兵力は一万くらいで、兵力としては多いが実戦には乏しいです。
(3)第三十二軍の当初の作戦
八原大佐の立案した作戦計画は水際作戦で、米軍が上陸の時に隙をつき一気に海辺で壊滅させる作戦でした。
いずれも八原大佐はどこから上陸されても対処できるように、北から独立混成第四十四旅団を本部半島に、
第二十四師団は島尻地区海岸に上陸した時に備えて読谷山を中心とした嘉手納地区、その南の普天間地区に第六十二師団を、
第九師団は那覇・首里地方から南の島尻地区に配備するものでした。
資料@ 沖縄本島地図 【第六十二師団到着から第九師団抽出まで】
参考
水際作戦とは・・・太平洋諸島、マリアナ諸島(サイパン・グアム)に米軍が攻め入ったとき、海岸で待ち受けて砲撃等で、一気に壊滅させようとした作戦。
だけど、実際はことごとく準備不足(陣地の設営が遅れているとか)や資材不足(特に、この頃はセメントが不足していました)
等が原因で失敗してしまい、成功した例は少ないです。(よくやって、ペリリュー島の激戦くらいだと思います)
米軍の進路は概ね限定されていたため、八原大佐は上陸をしやすい嘉手納地区に目星をつけていたと思われます。
上陸第一日目の時米軍の体制が整わない間に第一陣の第二十四師団は上陸を阻止して、その間に軍砲兵隊と第九師団は二日目夜までに
援護攻撃を開始し、混乱状態になれば、第九師団と第二十四師団で総攻撃をかけ水際で徹底的に撃滅する作戦でした。
一方でテンポの遅い飛行場造りをしていた第三十二軍に対し、大本営が強く指示しました。
だが、沖縄守備軍は陣地造りに時間を割かなければならなかったので、実態は沖縄島民の勤労奉仕によってまかなわれていました。
また、長参謀長も八原も過去の『航空優先思想』には批判がましく言っていたので、それを説得させるためという理由もあったわけです。
とはいえ予定の九月までで何とか完成し、十月には長参謀長統裁の司令部演習夜間での夜襲訓練
・拠点集結訓練・軍砲兵隊の実弾発射訓練などの演習を行い、準備は万全であるかのように思えました。
この頃から、沖縄本島の大空襲が始まり、那覇をはじめとする主要都市は焼け野原になりました。
※ただ、艦砲射撃はまだです。
ミルフィーユ
『結構強いんじゃないですか? これなら十分にアメリカさんに対抗できるような気が』
第三回目の講義 6/12(日)
今日のポイント!
ところが、どっこいなんですね。 実は沖縄全体にとって、とても痛い出来事がおこります。 なぜ、第三十二軍が悲観に陥ったか? 実は第三十二軍の弱体化した一番の原因がありました。 それは、第九師団の引き抜きでした。 |
(4)第三十二軍の誤算と第九師団の抽出
この頃「捷号作戦」が開始、フィリピンにおける決戦がおこなわれました。
フィリピンの防備を固めなければ、もし取られると東南アジアからの石油の補給路(東南アジアは日本にとっては石油の供給地。
なければ、戦争ができなくなっちゃいます)を経たれて、戦争継続が困難になることから日本にとってはとても重要なんですね。
参考
捷号作戦とは・・・マッカーサー指揮下のもと、米軍が本格的侵攻してきたので大本営がフィリピン防衛のために発動した作戦。
概要はレイテ決戦で、元々空・海軍主体になり、輸送船・空母などを撃滅させようとした作戦だった。
台湾に米空母機による空襲が始まり、連合艦隊は台湾航空基地に出撃を命じ、台湾沖海戦が始まりました。
この戦いで大本営は空母11を撃沈を含む多大な損害を与えたと発表、一気に国民が盛り上がりました。
↓
しかし、全くの誤報でした。(巡洋艦2隻が大破、空母一隻が小破という微笑の損害だったのです)
※大本営の戦果を国民に誇大に伝えていたとも言われています。
台湾沖での戦果から、大本営はここで攻勢に出るべきだと考え、台湾から第六十八師団をフィリピン戦線に配置しました。
ところが、そんなことをすると台湾の防備が薄くなるということから、沖縄守備軍の精鋭第九師団を台湾に転用することに決めたのです。
(ただ、前向きでは第九師団をレイテ戦線に使うべきということでした)
これに対し第三十二軍の八原大佐・長参謀長は憤怒し、八原大佐を台湾会議に出席させて意見を述べさせました。
『沖縄軍を主戦力である第九師団を抽出するなら、もう沖縄守る自信ないから沖縄守備隊を全てフィリピンにもって行ったらどうなんだ?』
(第三十二軍司令官意見書の一部の文をわかりやすいようにかなり意訳しちゃいました)
必死の八原大佐たちの必死なアピールにもかかわらず、大本営からの返答は「第三十二軍の最精鋭師団をどれか抽出しろ、どれを抽出するかは
軍司令官に一任する」ということでした。
ここで八原大佐達は考えた末、結局は第九師団を引き抜くことになり牛島司令官も了承します。
このことは第三十二軍の首脳部のムードを悪くし、大本営に対する不振をうみだすことになりました。
そして、今まで立てた作戦が無駄になってしまったのです。
ミルフィーユ
『じゃあ、この後の沖縄軍は!?』
第四回目の講義
(5)八原大佐の新計画 6/13(月)
今日のポイント!
ではでは、今日の講義では沖縄戦の新戦略ということを話したいと思います。 ミルフィーさんは結構心配してました。 確かに、三十二軍の兵力は三分の二に減り、戦力の低下は問題でした。 勿論首脳部も落胆を隠せないでいましたが、ただ一人八原大佐だけが新たな戦略を考えていました。 首脳部にとって第九師団の抽出は痛い出来事でしたが、この新戦略は後々に米軍を苦しめることになるのです。 |
八原大佐はとても痛々しく思っていましたが、このままだと弱体化した兵力で攻勢に出るのは難しいと考えました。
また特攻阻止のための飛行場確保もこの兵力では難しいと考え、飛行場の防御で短期間で玉砕するよりも堅固な洞窟陣地に立て篭もって
敵に出血を与えて島に拘束させた方が後の本土決戦の時間稼ぎにも繋がるので国家のためになると思うようになります。
2月〜3月に硫黄島の激戦(第九師団抽出前)があり、八原大佐はその戦いを念頭に入れた作戦を長参謀長に伝えました。
参考
硫黄島の激戦とは・・・硫黄島守備軍の栗林中将は強大な米海兵三個師団を島のあちこちに設けられた洞窟・地下壕陣地を使い、
持久戦を展開しました。
米軍の作戦予定期間は五日間でしたが、約三十日間もかかりました。
最終的な米軍側の死傷者は約二万九千人で、日本軍の戦死者約二万人で
日本軍よりはるかに大きい損害を与えました。
新戦略
沖縄本島の南部島尻地方を主戦場に選び、守備陣地を六十二師団を前線に出させて(嘉数から西原にかけての丘陵地帯)
首里西北と北方正面を防御地点とし、二十四師団は島尻西南部の海岸を防御地点とし、独立混成第四十四旅団は島尻東南部の知念半島の
守りを固めるという、南部に7〜8割の兵力を集中させることによって持久戦を展開・米軍に出血を強要するという作戦だったのです。
※ただ、前作戦で活用する予定だった北・中飛行場は兵力不足から破棄せざるを得なかったのです。
資料A 沖縄軍最終配備
さてさてこの頃第九師団の穴埋めとして、姫路の第八十四師団を沖縄本島に代わりに送り込むという大本営からの連絡が入りました。
勿論、首脳部は安堵の表情になったのもつかの間、夕方になって派遣中止電報が届きます。
いわゆる、ドタキャンです。
こうして、大本営との溝はますます広がり深くなりました。
大本営に怒りを覚えた八原大佐は『必勝の途』というパンフレットを配布し士気の向上に勤めるとともに、築城と洞窟戦法を強く唱えました。
南部を主戦場に選んだ理由は、サンゴ礁による地盤の堅固さと自然洞窟の多さの特徴があったからです。
また、南部のサンゴ礁の地層は10〜20メートルの厚さがあり、それが鉄の雨と言われた艦砲射撃をことごとく跳ね返したのです。
早速、軍と島民を総動員して陣地の整備に取りかかりました。
資材不足(特に掘削機やセメント等)で思うように進みませんでしたが、約100日をかけて地下陣地を作り上げました。
ミルフィーユ
『へぇ〜、でもこれじゃあ負けるための戦になっちゃいましたね〜』
第五回目の講義 6/14(火)
(6)島民疎開と沖縄
今日のポイント!
さて沖縄の主陣地の完成・格師団の配置等大部分の準備ができた沖縄守備軍でしたが、沖縄の島民の疎開は どうなったんでしょうか? 今日は島民疎開をテーマを中心にお話したいと思います。 |
この頃から政府緊急閣議では沖縄進攻の公算が大きいと判断し、沖縄本島を含む南西諸島から急いで老幼婦女子を本土と台湾に
緊急疎開を始める方針を打ち出していました。
勿論、八原大佐はすぐに県庁と協力して疎開計画を作り出しました。
計画では本土と台湾に計十万を1944年の七月までに疎開させる計画でした。
ミルフィーユ
『じゃあ、戦場になるんだから避難するのは当然ですよね?』
普通に考えると、そうなるのですが。
島民はどう思っていたのかといいますと・・・。
勇ましい守備軍を見てわざわざ疎開するのを躊躇した面もあるし、この時には前に話した四十四・五旅団が日本近海で海没したという事件の噂が流れ
米潜水艦がウヨウヨしている海を渡って疎開するのもどうかな・・・という迷いもありました。
後、生活に対する心配もありました。
しかし、最初は生活に不自由のない家族が疎開したのをきっかけに、スムーズな疎開活動に住民は次第に疎開に積極的になるようになります。
ところが、思いもがけないことが起こってしまいます。
対馬丸の撃沈事件です。
参考
対馬丸の悲劇とは・・・対馬丸は学童疎開船でした。
乗船していたのは1661人くらいで、うち小学生は813人と言われています。
船の老朽化による航行速度の低下は潜水艦の格好の標的となってしまい、悪石島付近で魚雷三発を受けわずか11分で沈没。
生存者は227名だと言われています。
そのうち、小学生は59人にすぎませんでした
勿論、住民の疎開意欲は低くはなりましたが、十月の大空襲で戦火が近くなったのを感じたのかまた疎開が再開され始められます。
幸い、撃沈されたのは対馬丸だけで他の輸送船は撃沈されませんでした。
一応予定の八割の八万人以上が疎開することができました。
それでも、沖縄の人口からすれば島外に疎開させた老若男女は一部しかすぎず、残りは島内の安全地帯に疎開させなければならないようになります。
そこで三十二軍は沖縄の北部である国頭地区に疎開するように指導しましたが、食料が行き届いていないのが理由となり
積極的な島民はいませんでした。
十二月に入って中央より『皇土警備要領』が発行されましたが、沖縄島民の現状にそぐように『南西諸島警備要領』が発行されました。
その中で第一項では、17歳から45歳までの青年男子を防衛招集するということでした。
二万人と言われています。
その中では、中学・模範学校生徒や高等女学校生も、通信兵や看護婦として戦場に赴くことになります。
それが後に、「鉄血勤皇隊」や「ひめゆり隊」の悲劇を生み出すことになります。
この召集は、島民をとても困惑させました。
そして、死ねばもろともという気持ちが強かったのでしょうか、南部に留まる残された家族は多かったといわれています。
また、捕まれば殺されるという『鬼畜米英』もあったのではないでしょうか。
いずれにしても、これが沖縄戦の住民が巻き込まれた要因になると考えられます。
また後の5月くらいに、長参謀長は
『軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁ず。
沖縄語を以って談話しある者は*間諜として処分す』
*注
スパイのこと。
と言っています。
これが、後々にスパイ容疑で沖縄島民が殺される理由が生まれてくるわけです。
『米軍よりも日本軍の方が恐ろしかった』という生存者の証言はここからも来ているのでしょうね。
こういうことから第三十二軍は作戦主義ですけど八原大佐はそういう疎開計画も視野に入れていたので
当時の軍人のなかでは特異なタイプの人だったといえます。
八原大佐が牛島司令官に、『沖縄本島北部を非戦闘地域と宣言し、そこに沖縄県民を避難させる』という提案もしましたが、それは住民達が拒否
したため、実現しませんでした。
が、この時代のカテゴリー内で考えれば、階級を超える行動をすることはとてもじゃないけど、できなかったでしょう。
でもサイパン島等は司令官たちが何も住民のことを考えずに、自決していますから、そんなことを考えれば
やはり努力は認めてもいいのでは? と自分は考えたりします。
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