教えて!! 知得留先生   歴史授業シリーズ1


 日本史概説    激動の沖縄戦――日米両軍最後の激戦地2――

                                                 運命の沖縄戦へ




前回の激動の沖縄戦に戻る       TOPへ      


猫アルク
「何かワシだけ忘れられてて、普段なら猫アルクと知得留は一緒にならなきゃいけないのにニャ。
 管理人の設定完全無視ニャ、管理人の怠慢ニャ、ということで今回から登場の猫アルクニャ
 知得留の助手をやるニャ、いつもどおりだからピンクも安心するニャ」


ミルフィーユ桜葉
「へ? 猫さんがしゃべってる……(;^^」



第六回目の講義   8/15(月)


 (7)米軍の侵攻   慶良間諸島


知得留先生

米軍はついに沖縄本島の目先にある慶良間諸島上陸作戦を開始しました。
しかし、この上陸作戦は沖縄でこの先起こる惨劇の序曲でしかなかったのです。


(7)米軍の侵攻   慶良間諸島


 米軍の艦隊は1945年3月23日に沖縄本島の西南沖合に姿を見せました。
規模で言うと空母部隊や戦艦を初めとして、輸送船・上陸用艦艇を合わせて約1300隻と言われています。
それからは激しい艦砲射撃が始まり空爆も強化され、容赦ない米軍の攻撃は激化の一途をたどるのでした。

 
 米軍の上陸は間近だということを悟った第三十二軍の司令部の読みは、伊江島に先に上陸をしてそれから沖縄本島へと本格的に
上陸をするという見解でした。
伊江島には飛行場が三ヶ所設置されていることもあって、戦略価値があるからというもくろみがあるからだと言われていました。


 しかし、米軍はまず慶良間諸島に上陸をしました。
伊江島の見解とは逆に慶良間列島は山なみの地形で飛行場もなく戦略的価値はないということで、司令部は楽観視していたと言われています。
司令部は慌てました。
上陸はしないということから、慶良間諸島の防備は薄く部隊もごく少数で慶良間諸島を守っていたこともありますが、特に一番の理由は
この慶良間諸島には海上特攻艇と呼ばれる秘密兵器があったためです。


参考

海上特攻艇とは・・・一人乗り用のベニヤ板のエンジン付きのモータボートで、名前は「震洋」。
             250キロの爆雷を積んで、夜陰に紛れて米軍の艦隊を殲滅することを目的としました。
             別名「青ガエル」とも。


 秘密兵器といわれた海上特攻艇ともいわれる「震洋」は米軍の上陸に伴い全て破壊され、米軍の奇襲に伴い慶良間諸島では
守備軍の抵抗にもかかわらずほぼ一日で占領されるにいたります


 住民は、軍とは違い武器を持っていないため、戦時中に言われていた『鬼畜米英』『生きて虜囚のお咎めを受けず』の信念の元に
自決が相次ぎました。


(省略)……全員集まるように言われて、みんなが集まると、突然村長があいさつに立って喋り始めました。
『生きていても、みんなウランダー(外人)に目を抜かれたり、鼻を抜かれたりして殺される。
 島も包囲されて逃げることができない。
 もうこうなったら全員死んでいこう。
 皇国(天皇の国、日本のこと)の勝利を祈って、運命をともにしよう』
 というと、はじめは騒然としていましたが一瞬シーンとなって、それからしんみりと杯をくみかわしたように記憶しています…(省略)…。
 Aさんという巡査が、私の叔父に手榴弾の使い方を教えていました。
『信管を抜いて、そのまま投げないで、握ったまま爆発させなさい』と、回りながら、戸惑っている人に教えていました。
 皆に手榴弾を配り終えると、最後は『天皇陛下バンザーイ』と三回繰り返しました。
 ……(中略)……
 あっちこっちで手榴弾が炸裂しました

                               渡嘉敷島での安座間豊子さんの証言
 

 二十人ぐらいの円陣を作った後、手榴弾を爆発させました。
死に損なった人は剃刀やお互いで殺しあうことで、命を経ったのです。
慶良間諸島の住民の玉砕は約700人と言われています。
こうした住民の玉砕は、戦後になって集団自決と呼ばれるようになりました。





ちょっと知得留先生の一口コラム


なお予断ですが。
この賀谷支隊長が米軍の上陸状況を司令部に報告するシーンは、『エヴァンゲリオン』とか『トップをねらえ!』の1シーンが元になっていることはとても有名な話です。
庵野秀明が『沖縄決戦』がLDになったときにライナーノートを書いたということは広く有名になってて、『激動の昭和史 沖縄決戦』は、庵野秀明が生涯何度も見たという映画みたいです。
『エヴァンゲリオン』とか『トップをねらえ!』という作品がここからきているということは何だか庵野秀明らしいですね。


<東宝映画  激動の昭和史 沖縄決戦(1971年 岡本喜八監督) から賀谷支隊長と司令部との通信しているシーン>



賀谷支隊長「本島西海岸一帯は米艦艇のため海の色が見えない!!」

三宅 忠雄通信参謀「何!? 海の色が!? それじゃわからん!!」

賀谷支隊長「船が七分に、海が三分! 船が七分に海が3分だ! わかったか!!」 



トップをねらえ!では

●海を宇宙にしたアレンジのセリフがあり、「宇宙が黒く見えない」や「敵が7分で黒が3分 、いいか 敵が7分に黒が3分だ」というセリフがでてきます。
●緊急対策会議で、艦攻本部長が「だめだ! だめだ! だめだ!」と机を叩くシーン(→『沖縄決戦』で丹波哲郎が演じる長 勇参謀長がモデルなのかな?)


エヴァンゲリオンでは

●「彼我兵力差は1対5」というセリフ(→『沖縄決戦』で長野作戦参謀が言ったセリフ)
●ネルフ本部の虐殺シーンの背景が沖縄決戦の住民が犠牲になるシーンとよく似ています。


ぱにぽにだっしゅ! では

●第11話 「人間万事 塞翁が馬」で、黒板に「テキが七でソラが三だっ!!!」と書かれています。



第七回目の講義   1/10(火)



知得留先生

さてさて、時間がたちましたが講義の更新ができました。
ついに、米軍は沖縄本島に上陸を開始しました。
反撃したい日本軍ですが、ここへきて司令部の空気がギグシャクしていきます。
何が原因でしょう? 沖縄戦の前半部分と照らし合わせてみたいと思います。


ミルフィーユ桜葉
「へ? 沖縄へ米軍が攻めて来ているのに今になってケンカしちゃってるんですか??
 ケンカはいけませんよ! 仲良くなってください!!」


猫アルク
「仕方ないないニャ、こういう参謀達の指導力不足だからこそ日本は負けたんだと後の八原大佐は後の著作『沖縄決戦』で振り返っているニャ」




(8)米軍ついに沖縄本島に上陸


 米軍は艦砲射撃と空襲を三日間続いた後、4月1日に米軍は上陸予定地の波具知海岸に艦砲射撃を開始。

大型砲弾 約44,825発
ロケット弾 約33,000発
臼砲弾 約22,500発

という至上かつてない猛砲撃でした。


 艦砲射撃の後、水陸両用戦車を筆頭に上陸部隊が次々と上陸を行いました。
上陸部隊は合計約45万人にものぼりました。
司令部がある近くの首里山に陣取っていた首脳部の一人、八原博通はこう回想しています。


午前八時、敵上陸部隊は、千数百隻の上陸用舟艇に搭乗し、一斉に海岸に殺到し始めた。
 その壮大にして整然たる隊形、スピードと重量感に溢れた決然たる突進ぶりは、真に堂々、恰(あたか)も大海嘯(だいかいしょう)
 の押し寄せるが如き光景である
」  
                            八原博通(著)『沖縄決戦』 から抜粋。


 ところで上陸前では、米軍は日本軍の攻撃を正直恐れていました。
なぜなら、上陸中や直後は体制が整ってないので攻撃を受け損害が大きくなると思っていたのです。
しかし、日本軍の攻撃はないに等しいでした。
しかも部隊もわずかな部隊しか配置されてなく、一気に米軍は上陸を完了しました。


 この頃の日本軍は息を潜めていました。
砲撃をすれば陣地がわかってしまい、攻撃はできませんでした。
ただこのような行動をしているのは八原大佐の戦略的持久作戦によるものでした
米軍の上陸付近でわずかな部隊の中で唯一組織的な部隊だった賀谷支隊は、組織的に抵抗する部隊ではなく逆に米軍をおびき寄せ
日本軍陣地にたどり着かせるのが任務でした。
言ってみれば、ジャブを少し食らわせながら撤退するような感じです。
そして、術中にはまったかのように米軍は南下していくようになります。


 極限にまでおびき寄せると同時に粘りに粘って出血を要求するための持久作戦は上陸一日目から始まったのです。





(9)米軍の南下と司令部の空気



 持久作戦という方針を打ち出した守備軍は、台湾の第九師団が抽出され2/3に兵力が減った
現状の兵力では沖縄本島の主要飛行場の北(嘉手納)・中(読谷)飛行場(激動の沖縄戦Tにある沖縄本島地図を参照)
を守備するのは不可能ということを見て実質飛行場を放棄していました。
放棄していたとはいえ飛行場には特設第一連隊という部隊を守備に付かせていましたが、飛行場設営隊や学徒兵を寄せ集めた
名前だけの部隊であって戦闘能力も皆無に等しかったといえます。


 上陸わずか一日で、米軍は北・中飛行場を占領するに至ります。
この出来事は守備軍には予測はついていましたが、中央の大本営では大きなショックを食らったようです。
大本営の頭には、沖縄へ来攻する米軍を撃滅するのは航空作戦しかないという思いが強かったためといえます。
なぜ航空作戦かというと、沖縄上陸直後の米軍はまだ体制が万全ではなく、今の状態でこそ航空作戦が成功できるという風な予測をしていたからです。
そのため、守備軍が飛行場を占領されたのにもかかわらず何もしない様子はただの自己生存主義に見えたのです。
この認識のズレはやがて、司令部の空気をギグシャクさせるものとなっていきました。


 守備軍司令部では北・中飛行場を占領された後、2日3日と続々と電報が届いていました。
電報の内容は簡単に言うと、「攻勢を取ることを要望する」という電報でした。
勿論、この場合の攻勢と言うと飛行場の奪還ということになります。
飛行場を奪還、維持していくことにより航空作戦の成功に協力してくれという内容でした。
最初は台湾の第十方面軍からで、次第に連合艦隊や、最初は電報を打つのに躊躇していましたが天皇のご下問もあって大本営からも届くようになって
いきました。


 この電報はある意味「腰抜けの守備隊」という風に聞こえちゃったかもしれません。
牛島司令官や長参謀長の心理を動揺させることとなります。
長参謀長はこれ以上面目を汚さないためにも、八原参謀の持久よりも攻勢の方を決意したのはこの頃です。


  3日の夜、この状況から幕僚会議が行われました。
 参加したのは参謀長の長 勇中将や高級参謀の八原博通大佐を初め、後方主任参謀の木村正治中佐、情報主任参謀の薬丸兼教少佐
 通信主任参謀の三宅忠雄少佐、作戦補佐参謀の長野英夫少佐、そして航空参謀の神 直道少佐が参加しています。
 なお、牛島 満司令官はこの会議に参加していません、作戦会議室の隣に司令官室がありそこで聞いていたといわれています。
 



<東宝映画  激動の昭和史 沖縄決戦(1971年 岡本喜八監督) から幕僚会議のシーン>




(右端)長 勇参謀長【丹波哲郎】、(参謀長から見て右側)八原博通高級参謀【仲代達矢】

※上と下に黒い帯が付いているのはシネマスコープサイズ仕様です、画像が悪いのはご勘弁です。


長 勇 参謀長「現在、敵はまだ陣地攻撃を決行できる配置ではなく前進行動中であり、体制が浮動している。
          この浮動の時期を利用して攻勢を取るべきである。
          この現状に立脚して攻勢を採るとすれば、夜間を利用して大規模な浸透前進を行い…(中略)…われの得意とする
          近接戦闘で敵を撃滅するほかはない。
          参謀長はこう思うが、皆の意見はどうか?」 

          
 幕僚会議に参加した参謀達は待ってました! と言っていいとばかり攻勢論に賛成しました。
特に航空参謀の神 直道少佐は熱烈なまでに攻勢賛成の意見を述べました。


神 直道 航空参謀「およそ軍の作戦指導は、上級司令部の作戦構想に順応すべきであります。
              大本営や方面軍の意図が陸海軍航空の主力、海上兵力を以って積極作戦を企図している現在
              軍としてもこれに順応しなければなりません…(中略)…」


 神航空参謀が言いたいことは海軍は航空作戦(後の菊水作戦)を展開していようとしているのに、持久作戦などをやっていては
数少ない勝機を逃してしまうことにつながることや、側面から特に湊川(知念半島沖)に米軍は上陸の公算がなくなり
総攻撃の機会が生まれたということを主張をしています。(またフィリピン戦線の持久作戦も例に出して持久作戦を批判しています)
それに対して高級参謀の八原博通大佐は真っ向から周りの攻勢論の意見に対し反対しました。
全然、周りの意見よりも180度と言っていいほど反対の意見です。


八原 博通高級参謀「軍は昨秋から戦略持久の方針を確立し、過去数ヶ月間、全軍この線に沿い、一意作戦準備に邁進してきました。
               いま敵は予想地点の一つである嘉手納沿岸に上陸し、予期したように南進してきております。
               この時、この際、何故に突拍子もなく根本方針を百八十度転換する必要があるのでしょう?
               実に脱線も甚だしいと言わざるを得ません…(中略)…」


                                             『沖縄決戦』(著 八原博通)から引用


 反対意見の八原高級参謀が主張したことは、
@地形面から中頭と島尻地方で進軍が鈍り、そこから米軍の猛反撃を受け壊滅してしまう恐れがある。
A敵の体制が整っていない状態で攻撃を仕掛けても、攻撃準備に時間がかかり(3日間)それから攻撃しても体制が立て直されている危険がある。
B北・中飛行場を使用妨害したければ長距離砲で十分。
C電報の内容が命令ではなく訓令的要望なので全然従う必要はない。
まとめればこういうことになります。


 全身全霊をかけた叫びを伝えた八原大佐でしたが、長参謀長の判断は…。


 長 勇参謀長「多数決に従い、幕僚会議の結論は攻勢に決したと認める」


 そして、牛島司令官の決済を受けました、牛島満司令官の判断はというと…。


牛島 満司令官「自分は軍主力をもって、北・中飛行場に出撃することに決しました。
            よろしくおねがいします」


 結局、攻勢に決まりました。
しかし、八原高級参謀は全然納得していない感じです、それが彼の著書『沖縄決戦』に示されています。


 (中略)しかしあまりにも戦理を無視した今回の決定には、用兵家としての自分の良心が許さない。
そもそも、将兵の生命を敢えて犠牲にして戦うのは何のためか、勝つためだ。
あるいは勝てなくても、敵に最大限の出血を強いて戦意をくじき、かつ次の決戦(※本土決戦)のための時間をかせぐことではないか。…(中略)…
世界注視の下、戦友十万の生命を預かり、祖国の安危を賭けて戦わんとするあたり、いかに中央の要求、軍司令官の決裁なりといえども、後世、物笑いになるような作戦はしたくない。それにも増して十万の将兵をむざむざ犬死にさせたくない。自分の一生も、ここ沖縄で終わるのだ。



 
作戦としては、砲爆撃による総攻撃と人海戦術で物量がはるかに多い米軍に対して押して押しまくる作戦です。
しかし、この作戦はできなくなりました。
それはなぜか? 新たな米軍の船団が現れ総攻撃をしている間に、背後から上陸の恐れがあったからです。
こうして総攻撃は中止となりました。

攻勢は中止になりましたが、これを機に司令部内の確執がだんだん強くなっていくことになります。



(10)海軍の特攻 菊水作戦−−−史上最大の特攻


参考

菊水作戦とは?……菊水作戦というのは海軍が立案し、陸軍と共同した沖縄戦における特攻作戦【水上特攻(大和特攻)、特攻機】。
            大和が出撃して撃沈されたのはこの作戦です。


大和の出撃と最期

日本軍部の中で考えが違い、陸軍は本土決戦を主張しているのに対して海軍は沖縄を決戦の地と考えていました。
そこで海軍は積極的な海上出撃を決め、その中で大和を中心とする艦隊を編成します。


大和は海軍最期の主力艦でした。
同じ主力艦だった武蔵や空母はすでに撃沈され、連合艦隊は壊滅しているのに等しい状態でした。
そんな中で残存している駆逐艦、軽巡洋艦を編成し沖縄本島に突撃した後戦艦を座礁させ陸上の砲台として攻撃を行い、弾薬が尽きたら艦を飛び出し乗員が小銃を持って突撃するという生きて帰ることができない水上特攻作戦を実行しました。


4月7日 しかし、米軍の潜水艦に位置を把握され米軍の第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)による空襲を受けてしまいます。
二時間の空襲の後、大和は沈没、軽巡「矢矧」、駆逐艦「霞」「磯風」「浜風」「朝霜」も失ってしまい、大和を旗艦とする第二艦隊の伊藤長官は作戦中止を指示し、大和と運命を共にします。(肝心の護衛戦闘機は前日の特攻作戦で飛行機をこちらに分配できませんでした)


残りの残存艦艇(駆逐艦「雪風」「冬月」「涼月」「初霜」)は伊藤長官の人命救助の指示に従ったあと、佐世保へ帰還しました。
こうして日本海軍の最後の組織的な抵抗は終わり、連合艦隊は名実共に消滅したことになります。




沖縄での神風特攻

神風特別攻撃隊による特攻攻撃も大和艦隊による水上特攻と同時進行で行われました。
特に第一次菊水作戦(4月6日)では米軍機動部隊に打撃を与え、米艦艇六隻を撃沈、二〇隻を撃破という損害を与え、米軍に恐怖をもたらしました。
第二次菊水作戦では占領してましたが機能はしていなかった北・中飛行場を狙った第二次菊水作戦も相当な結果をもたらしました。


しかし、だんだんと米軍のほうにも迎撃体制が整っていくと同時に、自らの特攻機の戦力も落ち始め結果的に日本側にも重大な損害をこうむることになってしまいます。後の菊水作戦は第三十二軍が玉砕する6月22日(最終は菊水10号作戦)まで続き、水上偵察機や練習機の白菊なども参加することから、特攻兵力は最終的にはゼロに近くなったということがいえますね。
結果的には菊水作戦による特攻は米軍にとって脅威ではありましたが、戦況をひっくり返すまでにはいたらなかったということです。 


☆ちなみに、この作戦の戦果も参考程度に記載しておきます。

(米軍)                                   

戦死・不明者 約5000名
    負傷者 約5000名
     沈没 24隻(駆逐艦15隻、他)
     損傷 218隻(空母13、戦艦10、巡洋艦5 駆逐艦67隻)


(日本軍)

戦死者 約2000名
本作戦で使われた航空機 8586機(未帰還機 1397機)





(11)夜襲をかけるが……、ますます深まる司令部内の確執


陸軍の司令部にまた話は戻りますが、攻勢計画が不可能になった中でまた持久作戦に戻ったのでしょうか?
いや、司令部の中では長 参謀長含む大多数が攻勢派を占めていました。
しかも菊水作戦が実施され相応の戦果がもたらしたことによって、また攻勢論がでてきました。
その中心となったのが長 参謀長です。


<東宝映画  激動の昭和史 沖縄決戦(1971年 岡本喜八監督) から夜襲についての激論のシーン>



画像に写っているのは長 勇参謀長(丹波哲郎)


長 勇参謀長海軍はやってるだろ!? 必殺の特攻をかけとるじゃないか!! 
          俺たちもやろう!! 必殺の夜襲をかけとるじゃないか!!

高級参謀 八原博通大佐現状での夜襲は無理です。
              彼我の戦線が常に浮動していますので、組織的な夜襲はかけられません!



急に呼ばれた高級参謀の八原大佐を始めとする各参謀達は急に呼び出され、夜襲作戦の立案を命じられました。
まだ長 参謀長はあきらめられない様子です。
八原大佐の猛反対にもかかわらず、結局作戦は実行されてしまいます。


作戦発起が4月12日となり、兵力は第62師団の新鋭3個大隊と歩兵第三十二連隊の2個大隊とし、島袋(首里北東13キロ)の線に進出するということがこの夜襲の目的でした。
こんな状況の中で八原大佐はこの夜襲は必ず失敗するという事を確信していました。
特に地形面から考えても、首里北方の山岳地帯は夜間行動が厳しいことや、出撃兵力で一気に一夜で10キロの戦線を突破できないと踏んでいました。


実際、12日に始まった夜襲は八原大佐の考察どおり失敗に終わりました。
兵力として新鋭1個大隊を全滅させ、2個大隊に大損害をこうむってしまいました。
しかもその時の米軍はほとんど無傷でした。
なぜ日本軍はこれだけの損害をこうむったのか、やはり米軍の圧倒的物量による砲爆撃でした。


さて私がここで、強調しておきたいことは司令部での確執です。
特に八原大佐と周りの参謀達との溝が深くなる出来事はここじゃないでしょうか。


例えば、八原大佐は新年を曲げない性格であるためなかなか人に対しても譲歩ができないようなタイプの人です。
だから夜襲を決定した時も、彼は勝手に連隊長に対し「一気に大兵力を投入するのではなく、小部隊ごとに、キリをもみこむことに突破する戦法がいい」といういわば作戦指導をやっていたのです。
それはどういうことなのか、軍司令官の命令を勝手に自分で変えて指導しているのです。
勿論これを受けて軍司令部内では混乱し、八原大佐に対して殺気だちます。


これだけではありません。
夜襲に失敗して司令部の空気が重くなったところで、八原大佐は元々自分の教え子だった薬丸参謀にこう言っています。

軍は数ヶ月前から貴官のいう先見洞察をもって、戦略持久の方針を定め、ちゃんと作戦準備を進めている。
 しかるに、戦闘が始まると上下とも軽挙妄動し、平素の作戦方針も準備もころりと忘れ、思いつきで行き当たりばったりの作戦をやるから、将兵をあたら犬死にさせ、弾薬を浪費する結果となる。
 やれ全力攻勢だとか、夜襲だとか騒ぐ者こそ大軍の統帥をわきまえない者である。
 軍の統帥どころか、こんな夜襲が成功するなどと主張した者は、初歩の戦闘指揮すらしらぬ者だ
」 (八原博通著 沖縄決戦より)


こういう発言は、作戦を立案した長 参謀長や賛成した参謀達にとってグサっとくる以上に反発や反感を感じてしまいますね。
発言をした本人にとっては正当と言ったら正当なんでしょうが……、逆にそういう理論が彼を孤立させていったのでしょうね。




(12)首里北方を中心とする戦闘−−−嘉数(かかず)高地の死闘



<東宝映画  激動の昭和史 沖縄決戦(1971年 岡本喜八監督) から幕僚会議のシーン>


↑(右から)高級参謀 八原大佐【仲代達矢】、長 勇参謀長【丹波哲郎】、(左端)長野 後方参謀


日本軍の猛反撃

さてさて、夜襲に失敗したとはいえまだ第一線は堅固に守られていました。
特に、(8)の賀谷支隊の活躍などによって挑発されるように南下をし始めた米軍は、牧港−嘉数−上原−和宇慶(わうけ)の主陣地にぶつかったのです。
第一線の主陣地を守っていたのは第六十二師団です。


前回の講義の(5)八原大佐の新計画という章で話していますが、主陣地地帯は隆起サンゴ礁自然洞窟を利用した堅固な陣地(トーチカ)です。
特に、前代未聞の砲撃にも関わらず被害がなかったということは大きなことでした。
兵員や兵器、弾薬を温存できたからです。
陣地が猛烈な砲爆撃を浴びたということで米軍は簡単に突破できると考え、4月12日に総攻撃を嘉数高地を中心にかけました。


しかし、米軍の総攻撃は失敗に終わりました。
日本軍の攻撃は連携攻撃という形だったといえます。
米軍の兵士が近づくと陣地の洞窟を飛び出し機関銃や小銃で的確な射撃を与えたり、また日本軍兵士が爆弾を背負って米軍戦車に特攻をかけました。
特に日本軍の反撃では砲兵隊による射撃が主役でした。



砲兵隊による攻撃

米軍にとって、嘉数高地の後方からの砲兵隊が脅威だったといえます。
高地の反対斜面では迫撃砲が、後方では野砲・山砲が山岳地帯の谷間や丘の頂上、丘の中間に照準を合わせていて火力で高地帯を覆うようにしていました。
砲の中では西原の南と嘉数高地の西に配置していた、九八式臼砲が威力を発揮しました。
砲身がなく、迫撃砲弾のおばけのようなものを発射することから「おばけ臼砲」とも言われました。

↓こんな感じです。


<東宝映画  激動の昭和史 沖縄決戦(1971年 岡本喜八監督) から>




また、速射砲も威力を発揮しました。
日本軍にとっては、当時は最強の部類に入るとされる米軍のシャーマン戦車が脅威でした。
しかし、ここでも砲撃が援護攻撃しました。
高地の反射面に設置されている迫撃砲や山砲、野砲の砲撃や、速射砲による戦車に対する砲撃によって143台もの戦車を破壊したと記録にあります。



米軍の耕す戦法と馬乗り攻撃

参考

耕す戦法……日本軍の陣地に対し一個一個つぶしていく方法です、それが畑を耕すように見えることからそう名付けられました。


米軍はむやみに突撃して陣地を占領する方法よりも、一個一個陣地をつぶしていく方法を取りました。
時間はかかりますが着実な方法であって、米軍の圧倒的な物量に物をいわせた作戦です。


また米軍は日本軍の洞窟陣地をつぶすために、馬乗り攻撃という攻撃形式を取りました。
日本軍陣地は自然洞窟を利用したものですが開口部が小さいところも多く死角が生まれることから、
まず米軍は物量にまかせて砲爆撃で洞窟入口を封鎖してから徐々に近づいた後、ガソリンとナパームの混合液を使い洞窟内の日本兵を殺害します。
飛び出してきた日本兵に対しては、銃火で掃討するという地道な長い作戦をしていきました。


そんな中で、火炎戦車は主役を果たしました。
銃火は壁があれば防げますが、火炎は隙間があれば洞窟内の日本兵を一掃できるので、日本軍にとってこれが脅威になりました。
この「耕す戦法」と「馬乗り攻撃」を併用した作戦は後に、日本軍の砲撃が衰えたときに急激に効果を増していきます。





(13)ついに総攻撃へ、対立する八原大佐と長 参謀長


何とか、前線に配置していた第六十二師団は第一線を維持し続けていました。
4月19日には米軍の3個師団での猛攻もありましたがそれに耐え、過去1ヶ月間の戦闘で南上原高地帯を失いものの第2線の前田、仲間の高地や城間付近は依然頑強に保持しています。
第六十二師団は兵力の1/3に減りましたが、米軍の損害は日々増えていきこの時点での死傷者は一万人をいっていました。


しかし、そんな状況とは裏腹に司令部の空気は日々重くなっていきました。
第六十二師団の兵力が著しく減ったことに対して、第二十四師団を第2線に増援したりしました。
米軍は前章で述べたみたいに、「耕す戦法」でだんだんと司令部に向かって前進していく……時間はかかりますが着実な方法によっていつかは首里司令部も占領されてしまうという悲観的論理は、司令部を憂鬱させていくと同時に攻勢論が再び生まれていきました。
4月29日、ちょうど天長節の時に長 参謀長は参謀達を作戦会議室に呼びました。



<東宝映画  激動の昭和史 沖縄決戦(1971年 岡本喜八監督) から幕僚会議のシーン>



↑(一番奥の中央)牛島 満司令官【小林桂樹】、(一番奥の右)長 勇参謀長【丹波哲郎】、(一番奥の左)高級参謀 八原博通大佐【仲代達矢】


長 勇参謀長「現状のままでは、第三十二軍はロウソクの火のように萌え細り消えてしまう。
         しかし、二十四師(団)、独混四十四旅(独立混成第四十四旅団)、軍砲兵隊が無傷のまま残っておる。
         この際決戦を挑み運命の打開を策すべきだ、俺はそう思う!」


八原 博通大佐「反対です! 以前敵は圧倒的に優勢です。
            劣勢な我が軍が絶対優勢な米軍に攻勢をとれば我の損害が彼に5倍するのは必至です」


        

長 勇参謀長【丹波哲郎】           高級参謀 八原博通大佐【仲代達矢】
「戦争はやってみないとわからん!」      「今こそ冷静な判断が必要です」


長 勇参謀長「理屈を言っている間に勝機を逸する!」


八原博通大佐「勝算のない攻撃は反対です!」


長 勇参謀長「八原君、君はこの沖縄においてただの一度も総攻撃をかけることもなく、もし敗れるようなことがあれば陛下に対して何と御詫びをする!?
         いや、日本に対してどう詫びるんだ!?」


八原博通大佐「誰にも詫びません、その必要はありません、我々は全力を尽くしています!!」


長 勇参謀長「戦争は積極的に、能動的に死中に活を求める! それが勝利につながるんだ!!
          勝利につながる間は徹底的に努力をすべきである!!」



この時に八原大佐は頑強に反対しました。
既に高地帯を奪われた後だから、攻勢を取ろうとすると、まず高地帯を攻撃目標に設定しなければなりません。
そうなると、圧倒的物量の差で確実に日本軍の主力は壊滅してしまうということでした。


翌朝、水面所で八原大佐が顔を洗っている時に長 参謀長が姿をあらわしました。


↑左が八原大佐、右が長 参謀長。


長 参謀長八原君! 君と僕とは常に難局にばかり差し向けられてきた。
        そしてとうとうこの沖縄で、二人は最後の関頭に立たされてしまった。
        君にも幾多の考えがあるだろうが、一緒に死のう。
        どうか今度の攻勢には、心よく同意してくれ
」         (八原博通 著『沖縄決戦』より)



長 参謀長はハラハラと落涙したと『沖縄決戦』には書かれています。
この後、八原大佐は攻勢論に賛成することになります。
説得の決め手が必ずしもこの場面だけとは考えられませんが、八原大佐も人の子で相当な圧力や、今の沖縄守備隊の状況を考えると普段から精神状態が不安定だったということは十分に考えられます。
たとえ戦略的に失敗だとわかっていたんですが、この沖縄に対するあきらめもあったのかもしれません。
ついに、日本軍は攻勢に出ることになります、5月4日から沖縄戦は一つの転機を迎えることとなります。


                                                                       次へ






SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送